昭和48年05月05日 夜の御理解
西岡さんのお話を、耳が聞こえんから良くは聞こえないけれど、なんか子供さんがあの商売、食堂の出前持ちにでもいいと言った様な所が、聞こえて来たんですよね。教典をちょっと開かせて頂いたら、七十九節の商売をするなら、買い場売り場というあのご理解がある。この教典の中には商売と言った様な事は、ここだけしかないんです。そら意味は全然違います、けれども何なら商売人でもなろう。
まあ話の筋は別としてね、そう言う様な所を頂いてから、今西岡さんが話しておられる、それが神ながらだなと言う事をね、お互いが頂かなければならない。あれは西岡先生のお話だ。是はだれの話だとこちらが。もう本当に神ながらなお話なのだから、こちらの姿勢が神ながらに、頂かせても貰うというね、姿勢を作らないと、いくら金光大神の働きがそこにあっておっても、それを受け止める事が出来ない。
所謂西岡先生だけしか頂く事は出来ない。西岡先生を通して親先生を通して頂くのは、やはり金光大神の所謂お取次を頂いておるわけですからねお互いが。今日教主様のお歌から抜粋したものを、二、三ご紹介しましょう。「あえて苦言呈すといえる言葉かぶり おのが不満、はらすこの人。」と。あえて苦言をあなたに呈すると言う様な事を、言うけれども、それは自分の風判を晴らすために言ってるんだと言う訳でしょうね。
「如才なく、振舞う人の 動く目に 口と腹との異なるみたい。」
「口軽く 言いし言葉が元となり おきし誤解と聞きつつ思う。」と。
「誤解をば 説かんがための言い訳が さらに誤解を深めたりという。」
「詫びる心 言葉とならばおのずから とくる誤解をわれは思うに。」
「自らを まもらむがため、力みつつ 人あげつらい 攻め入る哀れ。」
「寛容の たらざる我の言い振りの 筋こそ通れ 人のゆるさん。」
「一歩だに 譲らぬというは頑固なり さわ知りいつつ 譲りたく無し。」
「偏見の とり違なりている我に ひずきしみじみ驚く我は。」
「好き嫌い それぞれに持つ人間の 悲しさを思う よしあしはおきて。」
「我が欲に 目指せるものを人のせいにせる誤りに 気付き驚く。」
教主様の深い自己反省から生まれて来る様なね、お歌だと思うです。自分と言うものをギリギリ見る、見る事見極める事ですね信心とは。今朝のご理解じゃないけども、いわば虚無僧が、あの笠を取って周囲をきょろきょろ眺めると言った様な事では、絶対な事ではない。虚無僧は笠をかぶって、自分の足元だけしか見えない。自分の吹きならす尺八の音色に聞き入る。それに又人も耳を傾ける、と言う様な信心姿勢をとらなければ、駄目ですね信心は。
どうぞ。